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兵食論争(森鴎外vs高木兼寛)

今日で51歳になりました。
だいぶ長い間このブログを放置しておりましたが、本日の誕生日を機にこのブログを再開いたします。
思えば30代後半でホリステック医療と出会い、40代の10年間はずっと代替医療を学ぶ日々でした。先ずは、海外研修やワークショップの体験記から少しずつ綴って参ります。

フンボルト大学にて
Humbolt University フンボルト大学メディカルセンターにて

ベルリンにあるフンボルト大学は、舞姫などを著した文学者:森鴎外が留学した大学として有名ですが、森鴎外の経歴で忘れてならないのは陸軍の軍医総監時代のことです。
鴎外が慈恵医大の創設者である海軍の軍医総監高木兼寛との間で、脚気の原因をめぐって壮絶な「兵食論争」を行い。「脚気は栄養障害」であるとの高木に対して、「脚気は感染症」であるとの主張を譲らなかった鴎外の影響で日露戦争では、陸軍兵士110万人のうち22万人が脚気を患い、27,800人の病死者を出す結果となってしまいました。一方高木説を採用した海軍は、海軍糧食条例によって兵食改良(麦飯や副食の改善)を行い、海軍兵員の脚気患者をほぼ消滅させました。

フンボルト大学校舎
このフンボルト大学で「医食同源」の講義を受けたことは誠に感慨深いものがありました。

大規模な新田開発で米の供給が増えて、白米が充分に食べられるようになった江戸時代。その白米の常食によって「江戸患い」といわれる脚気が、経済的に豊かな上級武士や町民に流行ってしまったことは誠に皮肉なことです。
当時の日本人の国民病とまで言われた脚気は、明治になっても多くの死者や再起不能の重篤な患者を出していました。列強の諸外国と争うにようになった日本は富国強兵をスローガンに兵力増強に努めますが、本来もっとも健康体でなければならない兵士の健康管理に、「一日白米六合と味噌汁と漬物とする(陸軍兵食)」を貫き通した鴎外の意地の主張は猛省すべきことだと思います。

そしてグルメブームと云われる現在、栄養過多を助長するような食べ放題やグルメ情報などは、果たして新たな「江戸患い」を生む要因となっていないだろうか?と考えるのは杞憂でしょうか?
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テーマ : 医療・病気・治療 - ジャンル : 心と身体

医療や健康食品に対する無知さに無念を感じて

叔父はずっと黙っていましたが、従姉妹の死から2年経った時に、その代替医療の病院で、月に250~300万円もかかっていたこと、なおかつ亡くなった従姉妹が、その代替医療の病院の見解では、全快して退院したことになっていたと云うことを、別の従兄弟から聞かされました。
私は叔父家族と亡くなった従姉妹に対して、申し訳ないことをしたという猛烈な後悔の念と、同時に自分の医療や健康食品に対する無知さに言い様のない悔しさが込み上げました。

当時、明日葉に関わる仕事に少しだけご縁があり、そこで勉強会などに参加させて頂いておりましたが、どうしても人生にやり残したことがあるように思えて、転職をしてこの業界に入りました。その後周囲の方々のご支援もあり、医療と患者さんの仲介役の仕事をしてみたいと会社を設立し現在に至ります。


私には常に、現代医療に対する疑問と代替医療に対する疑問の両方を持っています。疑問というよりは、執念と言ってもいいかもしれません。しかし、現代医療で助かっている方は大勢おり、同時に代替医療によって救われている方もたくさんいらっしゃいます。

今の私は、健康食品の勉強会からご縁やいきさつがあり、代替医療の側の立場におります。しかし、一方のみに偏らないように、バランス感覚だけは見失わないようにと、常に心に留めております。

私がこの業界に足を踏み入れたきっかけは

新婚間もない従姉妹(癌研究所勤務)が乳癌を発病し、あらゆる最新の治療を受け壮絶な闘病生活の果てに、最後はもう為す術はありませんと地元の病院に転院し、もう年は越せないだろうと言われました。

諦めきれない叔父は、様々な健康食品を購入しました。私にも相談があり(当時の私は予備校勤務が本職)にわか知識で、某県の代替医療の病院に再転院させました。民間救急車を利用し生命の保証はできませんよと言われながら、年の暮れの雪の中を搬送しましたが、なんとか桜の季節までは延命いたしました。

やがて死期を悟った従姉妹は、最後は自宅に帰ることを切望し自宅で最期を迎えました。
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